知床博物館開館20周年記念フォーラム「しゃり歴史再考」



 平成10年(1998)11月22日(日)、知床博物館開館20周年記念フォーラム「しゃり歴史再考」を開催しました。会場となったゆめホール知床公民館ホールには120名を越える参加をいただきました。その多くは町内の方で、斜里町は考古学や歴史への関心がたいへん高いことを再確認した次第です。
 斜里町の歴史は先史時代も含め、町史の古典として知られる『斜里町史』によって集大成がなされました。今回のフォーラムはその後は町史の再評価とその後の研究成果による新たな斜里の歴史像に迫るものでした。

1)基調講演
オホーツク海沿岸の発掘調査の足どりと考古学上の到達点 宇田川 洋氏(東京大学文学部教授)
 河野広道は、町史執筆に先立ち朱円環状土籬やウトロの遺跡を調査しています。その成果は『斜里町史』考古編に現れ、斜里町の遺跡を東北地方との関係やシベリア大陸と関連づけた当時としては画期的な考察が行われたのです。その後、知床の遺跡発掘は東京大学が中心となり、網走や羅臼も含めて調査が続けられました。そしてトビニタイ式や宇津内式など文化の指標となる土器群が北海道の先史文化に位置付けられたのでした。
 最後は昭和30年代の遺跡発掘の「なつかしのスライド」上映会で終わりました。

2)一般講演
知床半島の遺跡 松田 功(斜里町立知床博物館)
 斜里町内にある345カ所の遺跡は時代によって分布場所が違っていることが町教育委員会の調査などで明らかとなっています。古環境の復元やその立地場所から当時の気候や文化をより深く考察していきたい。また知床の半島部は決して「地の果て」ではなく、生活場所であったことが遺跡調査から明らかとなりました。後半はスライドを用い、斜里町教育委員会による緊急発掘(行政発掘)調査の歴史をたどりました。

近世の道東のアイヌ 豊原煕司氏(タナカコンサルタント文化財調査室長)
 近世の初期、アイヌの暮らしは季節の変化に応じ、河川の流域を河口から山間部まで利用するものでした。しかし場所請負制の成立によって、これまでの土地利用に変化が加えられました。その結果、たとえば斜里のアイヌと西別川流域で周辺の地域とのいさかいが起きたと考えられます。近世のアイヌの様子を復元するには、場所請負制定着の前後での差異を考慮することが必要であるとのことでした。

近世のシャリ場所とネモロ場所 川上 淳氏(根室市博物館開設準備室学芸員)
 斜里は近世の文書資料が極めて少なく、古文書から直接斜里場所の様子を描くことはできません。そこで同じ藤野家が請負人となった根室での記録をみると、近場所請負制下で窮乏していったアイヌの暮らしが明らかとなっています。しかし近年新たに発見された文書資料などを用いた研究では、近世のアイヌの出稼ぎ労働に対する新たな見方が提起されています。北海道全体で比較してのシャリ場所の理解が今後の課題とされました。

松浦武四郎の見た知床 秋葉 實氏(丸瀬布町町史資料室長)
 幕末の北方探検家として知られる松浦武四郎は知床にも何度も足を運び、詳細な記録を残しています。なかでも和人が拓いた漁場での労働がもたらしたアイヌの減少と文化の破壊に危機感を抱き、幕府に対して救済策の実行を訴えるという、現代にも通じる重要な問題的を行ったのでした。また、彼は正確なスケッチを残しています。知床半島の地名調査では、シレトココタンの位置確定の決め手になったのが「手控え」のスケッチでした。その絵をスライドで紹介しながらの講演でした。

3)シンポジウム
「しゃり町史再考」座長:宇田川洋氏、パネラー:講演者全員
 話題提供のためにと参加者にはあらかじめ「質問カード」が配布されていました。そして集まった質問はなんと30近くにのぼり、シンポジウムはこの回答から始まりました。そして講師の間で分担し、質問のすべてに答えるうちに終了時間となってしまったのです。残念ながら「世界史のなかに知床を位置付ける」というテーマには至りませんでしたが、日頃からの疑問が氷解した参加者も多かったことと思います。

 以上がフォーラムの内容です。会場には更科源蔵の直筆の『町史』の原稿や草稿、斜里郷土研究会が行った昭和20年代の発掘調査ノートも展示しました。翌日の史跡探訪バスハイクも36名が参加。久々の歴史探訪の2日間は大盛況となりました。
 講師と参加者の方々にあらためてお礼を申し上げます。
(知床博物館ニュースレター「タンネウシ」No.85、99年1月より)

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